『スパイの妻』(監督:黒沢清)

黒沢清と言えばキーワードは「不穏」である。『CURE』は文句なしに不気味なホラー映画であったし、ドラマW枠で放映された『贖罪』は救いのないストーリーを増幅させる演出で胸糞悪いことこの上なかった。(←誉め言葉)

 

*黒沢映画にしてはずいぶんとわかりやすいプロットだなと思ったら、もともとお弟子さんの濱口竜介、野原位が用意したものだったのか。

*風の音とコントラバスだかチェロだかの重低音で観客の心をざわつかせる演出はいつもの黒沢調。いつか音響ドキュメンタリーでも実現しないだろうか。撮影現場より編集室の監督を見てみたい。

*愛のふたしかさ、正気と狂気の境目のあいまいさ、嘘と本音の境目。さまざまなことが宙ぶらりんな、上級サスペンス映画であった。黒沢作品としてもっとも好きな部類には入れられないので、「極上」の形容詞はつけたくない。

*邦画は戦前の裕福な家庭を描いても貧乏くさくなりがちだ。今回も成功した貿易商の家に女中が一人しかいないけれど……庶民が地味な着物で暮らしていた時代に目いっぱい洋風に暮らす点を強調したためか、割とブルジョワ家庭らしいムードが出ていた。聡子のワンピースの生地がいちいち高そうだ。

*今まで見た記憶のない色合いの軍服だった。青灰色と呼ぶべきか、相思鼠と呼ぶべきか? どこぞの国の黒い軍服とはまたちがった寒々しい美に惹かれた。

*大河のスタッフがおおぜい参加したとのこと。撮影所システムが崩壊した今、日本で一番創造的な映像を作れるスタッフはNHKにいるのかもしれない。

*知性も感性もいかれた人だらけの映画だが、愛する夫を助けるためとはいえ、夫にとって大切な甥が拷問に合うのなんてへいっちゃらな感じの聡子が一番怖い。

*優作の志が良心的みないな捉え方をされているようだが、これ、他の国だっかたら「いかれた男」とみなすのが一般的ではないだろうか。

*拷問シーンはかなり洗練された演出。昨今、国内外を問わずあからさまな撮り方が多いけれど、被拷問者の顔や手指をモロに映さずに客を怖がらせる方が高級である。悲鳴の反響がこれまた心臓に悪い。

731部隊のネタは、もとは森村誠一が書いたフィクション中のエピソードであり、年々劣化するNHKスペシャルが事実であるかのように報道し、しかしアメリカが公開している文書には「裏付けなし」とされているという。邦画が賞を取ったのはめでたいことだが、フィクションとノンフィクションを混同する人がまた増えそうなのはげんなり。以前、監督が企画していた『一九〇五』が実現していれば、こんなことにはならなそうなのに……。

*最後の上映場面で、前半で言及された溝口の映画が映るのか、あるいはブルーフィルムか、などと愚かな予想を立てたが、違った。まあ、考えてみればあれ以外はあり得ない。妻への別れのラブレターと取れないこともないフィルムだった。

ボンベイをさまよっていたとの噂もある優作。もともと渡米する気はなかった……と読んだらうがちすぎだろうな。

*主演女優が昔の女性の雰囲気を出していると評判だったが……当方には、『この国の空』の二階堂ふみの台詞回しほどそれらしいとも思えず。

*黒沢監督は、内面が空虚そうな男優を好んで使うと言われた時期がある。今回の高橋一生東出昌大もそれが当てはまる。東出は、テレビに貼りついたワイドショーおばさんなんか相手にせず、映画にどしどし出るべし! この二人の男優に負けず劣らず不気味な存在感を醸し出したのが、旅館の亭主役の人だった。

BSプレミアムの特番『世界のクロサワ「スパイの妻」を語る』も見た。国谷裕子がしきりとNHK的においしい言葉を引き出そうとしておったが、ほいほい乗るクロサワではなかったので、いい気味と思った。