今年は雲霧三昧
鬼平は吉右衛門しか受け付けないが、雲霧はBSの新作が初見で、中井貴一はベストじゃないだろうと思ったので、時代劇専門チャンネルの79年版、95年版まで見てしまった。いずれも基本的には宮川一郎脚本。三作とも、ナレーターの渋い美声に聞きほれた。
最新版でよかったのは、なんといっても黒と茶の発色が美しい撮影。そして、疾走する雲霧一味を背後から映すエンディング映像と重厚感なエンディングテーマ。お松のキャスティングも最新版が、愉快でふっくらした人情味を感じさせた。因果小僧のダメっぷりが強調されすぎたきらいがあり、全体にカタルシスよりじれったさが印象に残る。手塚とおるをかっこいいと思う日が来るとは思わず、その点は意外な収穫。中井は、盗賊のお頭としては旧バージョンのスターたちほど貫禄がないかわり、本来は由緒正しいお武家さま、という部分では一番役に合っていたかもしれない。竹中主演の『酔いどれ小藤次』といい、今作といい、最近のお年寄りは殺陣が心もとない。
79年版は天知茂主演。第一話の『初夜に賭ける凄い奴ら』というタイトルといい、「や~や~や~やんやや~」というOPスキャット(?)といい、今見るとあまりに古い。こみあげる笑いが喉元まで達しない、妙なむずがゆさにちょいちょい襲われた。当時はかっこいい男は「ニヒル」でなければならず、天知はその代表格。谷隼人も、人間なにもそこまでハンサムでなくても……と思ってしまうほど、今の俳優たちとはいろいろ違う。お千代役の大谷直子は、肌が冷たそうな冴え冴えとした美貌が印象的。それでいて、おりにふれ内面の情欲めいたものがちらつくところがいかにも大人の女優。古いドラマほど、相手との呼吸を考えずに自分勝手な芝居をする無名の脇役が多いのが意外。
95年版(山崎努主演)を一番堪能した。工藤栄一、斎藤光正といった活劇の名手が演出を手がけ、石橋蓮司、中村敦夫ら助演陣も盤石。池上季実子はお千代役としてダントツ。気品から妖艶さ、ゲスな凄みまで表現の幅が広いし、老婆の演技も意外とうまい。なんといっても、あのやや斜視がかった美貌がたまらない。立ち回りも今作が一番。時代劇のスタッフキャストの油が乗り切っていたか、あるいは最盛期が終わろうとする時期だったのか。盗賊と火盗改の対決以外では、第11話、富の市(六平直政)とおかね(深浦加奈子)が務めと愛のはざまで苦悩する場面の光と影の演出が忘れがたい。雨降りの薄暗い夕暮れ時、わずかな光が差し込む四畳半で背中を向けて座る男と女。光を見ることはあきらめていても、ぬくもりを捨てきれることができない偽按摩と年増のなんという人間ドラマ! 木鼠の吉五郎は「女好きだが女には惚れない」、富の市は「惚れたら女を騙しきれない」というキャラの書き分けも豊かだった。
最終回、仁左衛門が本懐を遂げるため、身代わりを買って出た実兄と刀を取り交わす。表情を変えず、「生き残って、辻家の恨みを晴らせ」「さらばでござる」と言葉少なに今生の別れを告げる山崎努と丹波哲郎の芝居のダンディズムにしびれる。今だったらこの手の芝居は「棒」呼ばわりされちゃうんだろうな。
95年はフジ時代劇の当たり年だった。今作と同じ松竹制作、能村庸一企画、山崎主演で『阿部一族』という単発の傑作がある。殉死を描いた鴎外の原作をかなりふくらませた時代劇。演出は深作欣二だが、これはアンチ深作の人々にこそ見てほしい。下品なシーン皆無、女の裸も無し。深作にはめずらしい格調がある。大がかりな竹矢来などセットにも映画並みに金がかかっている。一部の隙も無い古田求の脚本、緊迫感に満ちた長生淳の音楽とも一級品。真田広之の槍の立ち回りを初めとする高度な殺陣も見もの。
蛇足:78年の映画も見てしまった。予想通り、仲代のナルシスティックな新劇芝居は池上の世界に全然合わない。でも、監督が五社なんだから演技陣が濃すぎるのもしかたがないか。岩下志麻はさほど引き出しが多くもないのに、七化けがはまるのが不思議。あれが昔のスターというものか。