『夏目漱石の妻』第3回『やっかいな客』

初回は流産、第2回は夫の神経衰弱と実家の零落。今回鏡子が直面したのは、かつての養子にたかりにくる塩原老人であった。

黒島結菜を初めて見たのは、鴎外の娘を演じたドキュメンタリー・ドラマだった。そのころから時代物が合う人だと思っていたが、今作でも明治の娘がぴったり。素直な声質によるナレーションが、ドラマをすこしは明るくしている。いつか大正時代のモダンガールでもやってほしい。
金之助パートは重苦しい場面が多いけれど、鏡子夫人の物忘れに文句を言うシーンなどは、長谷川博己がそこはかとなくおかしみを感じさせる芝居をしていて、くすりと笑わされる。心身の不調が始まる時の眉芸は毎度見ものである。苦しむシーンをかっこよく見せようとしないところもいい。

「新聞なんてしょせんはかわら版と同じお商売」は拍手したくなる台詞。夫の新聞社への転職にもろ手を挙げて賛成する気はないけれど、夫が強く望むなら反対はしない妻、の描写がリアルだ。

恩師との散歩中、ブルジョアプロレタリアートだとくっちゃべる意識高い系の若者をよそに、塩原から現実的な厄災がふりかかる予感におののく金之助。

お金が余っているから書生の世話をしているわけではなく、小説が当たっても質屋通いがやめられない夏目家。
花嫁修業に来ている房子にお針を教える鏡子。
子供たちの遊びや服装も含め、明治の中流家庭の暮らしぶりが丁寧に描かれる。

映像で代言人を見たのは初めてだ。オーバーアクトに辟易させられることが多い竹中直人だが、今回は節度があって心情がにじみ出るいい演技である。かつては優しい養父だったのに、今はすがるような目をしながら金之助の懐を狙う。卑屈になったり居丈高になったり、じわりじわりとかつての我が子を追い詰めていく。金に困った人間の描写が容赦ない。

金之助の兄は郵便局勤務だったのか。直矩は弟とは違って屈託のない人柄で、旦那衆と浪花節を聞きに行くなど人生を楽しんでいるもよう。「旦那衆」のゆったりとした響きがいいなぁ。五十過ぎてできたから愛情が湧かずに養子に出した末っ子を、240円で買い戻した実の父。多産多死の時代ならではの小さな悲劇である。まだ少年の金之助を連れてきた塩原が「申し訳ない」と言ったのは、家業が傾いて育てられなくなったからかと思ってしまったが、漱石年譜によれば、養父母が離縁したため実家に帰されたということらしい。金之助は本家に居場所がなく、ロンドンでも居場所がなかった。ドラマ終了までに、この人は地上に安住の場所を見いだせるのだろうか?

境内で子供たちを遊ばせる塩原を目撃する鏡子。塩原は、金之助の強情やわがままが、生来のもののようにも、部分的には養父母の甘やかしからきているかのようにも取れる説明をする。この場面、緑が美しく、葉ずれの音が耳に優しい。

雨の日に、またも塩原が金の無心に来る。柴田岳志なら夏目家に向かう男の後ろ姿を足元から映すところだが、今回は榎戸崇泰が演出担当なのでそれはなかった。しかし、全体的に格調があり、鏡子の体温が伝わってくるような撮り方は柴田演出と共通するものがある。
後妻に責めたてられて200円借りにきたと言い出す塩原。「(新聞社で)べらぼうに貰ってるな」の言い回しがいかにも明治の文芸ドラマだ。養子でなくなってからも、金之助が家に上がり込んで羊羹や肉を要求し、友人と酒盛りをしたとの事実を突きつける塩原。金之助にとってきつい一撃だ。ストレスのあまり胃痛で倒れる金之助。仮病じゃないかとそしる塩原。
「よくご覧ください。これが仮病? よくご覧なさい!」
「鏡子、もういい(よく聞き取れず)。この人はいい父親だったんだ。たった一人の大事な父親だったんだ」
過去形で元養父をかばう金之助。三人が三人とも追い詰められた迫真の一場である。

「たがいに不実不人情にならぬように――うちの人は人情はありますよ。あなたはどうなのですか!?」
鏡子は三年がかりでためた100円を突きつけ、質札を見せ、説得力に満ちた演説によって塩原から念書を取り戻す。鏡子さん、平成に転生して外務省に入ってほしいぞ!
しかし夫は妻の手柄を褒めはしない。
「これでまた一人、身内が減った。身内というのはやっかいだが、自分が生きてきた証拠のようなものだからね」「残念だ。おれは君ほど強くはない」
出産を控えた鏡子にとって、大事なのは過去よりもこれからの生活である。さみしさとあきらめ、そして少なくとも塩原の催促からは逃げ切ったという安堵。悲喜こもごもの「あーあ」である。

塩原との決別シーンでは控えめでやや突き放すようなBGMが効いていたが、荒井伴男の登場場面には明るいワルツ風の曲が流れ、画面に新しい風が吹く。
労働争議や治安警察法施行が簡潔に紹介される。これは家庭の中だけを描くホームドラマではない。

実験的な作品と称される『坑夫』を読みたくなった。