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『天皇の料理番』終わる

(原作未読)

縮こまったところのない、気持ちの良いドラマだった。

まことに若く小さな国でフランス料理と出会った悪たれが才能を開花させ、二代に渡って天皇に仕え、八十を超えて引退する。見事な男の一代記だった。

主人公に秀でた才能がなく野心がなく攻撃性がなく、特定の人物に愚直なまでに尽くすこともなく、迫害されても激怒することもなく、大きな失言もなければ性欲もない……そんなドラマは小うるさい集団からクレームを受けることはなくとも、極私的にはちぃともおもしろくない。久々に血がたぎっている生身の男の物語を見せてもらった気がする。

今作と同じく石丸P、森下佳子脚本による『JIN』は、現代人が過去にタイムスリップして異世界に驚く話なので、比較的無理なく昔の価値観を出すことができた。今回はその手のエクスキューズが効かない物語ながら、明治~昭和の人々が大切にしたものを堂々と押し出してきた。
時代考証山田順子も『JIN』スタッフだが、彼女の仕事ぶりとおそらくは潤沢な制作資金がドラマの背景をしっかり作ったと思う。輸送手段、照明器具、女性の髪形の変遷などをさりげなく丁寧に見せてくれた。

プロットはベタでも、説明過剰な演出は予想外に少なかった。周太郎や俊子の臨終の回はさぞかし大仰な愁嘆場に大音量のBGMが流れることだろうと予期していたら、じつに趣味のいい演出であった。周太郎のように不治の病で長患いの場合、男たちの反応はああいうものだ。俊子の場合、家族一同これが最後かもしれないと覚悟しながら新年のあいさつをかわす場面が、直接的な臨終描写の何倍もの効果を上げていた。

「まごころ」がキーワードということで、初回からかなり警戒していたが、押しつけがましくならずに、いろいろな形でまごころを表現していたのに脱帽。最後の最後にもっとも敬愛する陛下から「料理はまごころだね」と言われ落涙する篤蔵。人生に悔いることなし、の圧巻の場面だった。

飽きっぽくて「これ」というものと出会えなかった篤蔵が、偶然カツレツを食べさせてもらってから寝ても覚めても料理のことが頭から離れなくなる。若い時期の篤蔵の飽きっぽさや身勝手さや止むに止まれぬ衝動の描き方が秀逸。華族会館での修業時代は、宇佐美に黙って英国大使館でも料理を学ぶ。二つの厨房を全力疾走で行ったり来たりさせることで、画面にスピード感、躍動感、そしていつバレるのか?!というサスペンスを与えていた。

フランスでの修行時代はたった二回。それでもスタッフが描きたいことはすべて描けたのではないか。執拗ないやがらせをする同僚に包丁をつきつけるシーンは篤蔵の未熟さの表れでもあるのだが、あれくらいでなくては大望は果たせないと思わせるところがあった。平成の時代でも、フランスで修業した有名シェフが「いざとなったら牙をむくと思わせなくては、向うではやっていけない」と語っている。
フランソワーズとの別れはうまくまとめた印象。
明治末期の日本人にとっての天皇崩御の重みを描き、いよいよ司厨長になる回へとうまくつないでいた。

篤蔵は宮中独特のしきたりに面食らう。大膳寮の面々はけっして安易に旧習を守っているだけではない。ジャガイモの成形を叱りつけられた料理人たちが懸命に包丁の練習をする場面で、一流の職場とはどういうものかがさりげなく描かれていた。民放ゴールデンでも、台詞やナレーション抜きに大事なことを表現できるのだ。

関東大震災の回以降は、いっそう作り手の覚悟や矜持が伝わってきた。
俊子と子供が一緒になって篤蔵をののしったり、篤蔵が職場をほったらかして妻子のもとへ駆けつけたりと、さんざんな話にしてしまうことなく、公に奉仕すべきという義務感と私的感情のはざまで悩む職業人を腰を据えて描いてくれた。俊子が"みんなが困っているときだからこそ"産婆の仕事にとりくむオリジナリティのすばらしさ!

なかば独りよがりな独創性に走った時期を過ぎてからは、つねに誰に食べさせるのかを意識してきた篤蔵が、病に伏せる愛妻のために料理を作る。俊子が弱っていくにつれ、料理が白っぽく量も少なくなる。子供たちと新太郎の心づくしのお遊戯やら四季折々の行事やら、夫婦愛、親子愛、居候愛(子守の役に立っているから、居候呼ばわりは悪いかも)の表現に打たれた。

最終回は一時間半。調理場での篤蔵の演説とGHQへのご奉仕を少々削って一時間十五分くらいにしてほしかった気もする。過去、粗製乱造されてきた戦争絡みのドラマでは、外国人は紳士的ないい人ばかり、庶民は戦中も戦後も軍部批判が三度の飯より大好きで、アメリカに身内を殺された人の怒りの矛先はなぜか同胞に向けられるように描かれてきた。本作は珍しく、勝者の奢りも戦没者遺族の悲しみも省かない。外国と違って日本のメディアの世界では、こんなことにも勇気が要ると思われる。NHKドラマだと、脚本から「アメ公」は削られ、「お国のために」を口にする人物は揶揄の対象にするだけだろう。「アメリカ人を憎んでも息子さんは帰ってきませんよ」と言う篤蔵。ここで黒川が納得してしまったら、それはお子ちゃま&脳内が学生止まりの視聴者向けドラマ。生きた人間を描ける森下脚本は黒川に、しょせんは他人事だから綺麗ごとを言っていられる篤蔵を殴らせる。この手の真に迫った描写は、来月山ほど流されるだろう各局の教条的な戦争特集には出てこないだろう。

高学歴の脚本家は、無学なはずの登場人物にマルクスかぶれの台詞を吐かせてしまいがち。篤蔵と宇佐美に借りものでない天皇論を語らせた森下女史に尊敬の念を憶える。長年食事を提供し、ポカをやったときには直接お言葉をたまわり、幾度となく人となりに感動した篤蔵の「お食事をお出しして、我が子のように見守ってきた。ええお方だからお守りしないとあかん」。食に人生を捧げた宇佐美の「恐れ多いことながら、自分にとっては味噌のような存在」。食と職が生きることと切り離せない男たちの、腹から出た言葉のなんという味わい深さ。"天皇の料理番"は、料理人の栄達の頂点だけを意味するのではない、天皇を支えた人々の思いを象徴する言葉でもあった。理知的な構成力と情に対するまなざしが両立する森下脚本の真骨頂ともいえるシーンである。

周囲の人々が手を差し伸べたくなるのも才能の一つ、と思わせるドラマだった。が、いつでも誰でも篤蔵の願いをかんたんに聞き入れるわけではなく、一度はフランス大使に「しかし、私はあなたに雇われているわけではありませんからね」と言われ、子守を頼みに行った梅子には「あたしにも店があるからねぇ」と言われる。大人にはそれぞれ立場やなりわいがある。当たり前のことがないがしろにされない、という点ではお金の扱いにも嘘がなかった。料理人の父親に反抗する一太郎に家の手伝いをさせて駄賃を与え、仕事の大切さ大変さを教える家庭教育がすばらしい。

ならぬ堪忍するが堪忍――笑い興じるアメリカ人将校とその女房子供たちの前で、カモの真似をする篤蔵たち。苦い残酷な場面だが、記憶力のすぐれた人々によれば、カモの真似は初回に出てきたそうな。「これが伏線ですよ~」みたいな素人くささからほど遠い脚本で、鈴の使い方ともどもとにかく巧かった。

TBSは昨年『MOZU』でヘビーな映像表現に挑戦し、今年は激動の時代を生きた先人の物語で真っ向勝負。NHKに欠けた部分を補う局になりつつある。


何年も心に残りそうなドラマだが、少々残念だった部分は――
*ここぞという場面のBGMのはんぱない音量。が、もし後期高齢者の役に立っていたのなら、いたしかたなし。

関東大震災のごたごたで人手不足な面はあっただろうし、新太郎の活用法には納得。それでも、震災前の秋山家に子守女も飯炊き女もいないのはあまりに不自然。司厨長といったら、並みの腰弁当より給料はよかっただろうに。女中がいても俊子の孤立感や疲労感を出すことはできたはず。演出家は、21世紀でも厳然と階級差がある諸外国のドラマからいろいろ学べばよいのに。

*帰国後の篤蔵はずいぶん丸くなったように見えた。俊子に「癇癪を押さえて」と言わせる回から急に短気な性格を強調したところは、ややスムーズさに欠けた。

一太郎の作文が内容、表現ともまるで現代っ子で興ざめはなはだしい。「かっこいい」はないだろう! すさまじくうまい子役だっただけに、もったいない。

*裕福な実家のある俊子が"苦界に身を沈めた"と誤解させるような予告は悪趣味。